「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ/訳:土屋政雄
私は本を読まない。知識に対する憧れはあるので本を手に取ることも多いが、読み始めてみると続かなかったりする。大学もしっかり身を入れて学んだわけではないし、社会人として胸を張れるようなキャリアも築いていない。本を読むにしても私の劣等感を刺激してくれる自己啓発本やビジネス本が多い。「読まなきゃ真人間になれない」という焦りから読むものだから、学びたい意欲が心底湧いているわけではない。
中高生のころは純文学や小説を、大学の頃は教材と指定された専門書も「おもしろいなー」と思いながら読んでいた気がするのだが、いつ生活から学びが抜け落ちていってしまったのか。
在宅勤務中、昼休みに運動がてら散歩にでかけ、近所の本屋をぶらつく。仕事の本を買いつつ、何か小説を久々に読みたくなった。
人との交わりが減った生活の中で、読むという能動的な行為を以て全力で逃避できる世界が欲しかったのかもしれないし、人の心の機微を追体験したかったのかもしれない。
手に取ったのは、カズオ・イシグロ。
読んだことがないし、ノーベル文学賞を獲った人として名前を聞いたことある程度。イギリス文化の大御所らしいが、名前の響きが日本語話者には馴染みがあるというだけで親しみが湧く。
私は最近の日本人作家もよく知らない。日本作品をタイトル買いすると、ケータイ小説(死語?)のようなペラペラのものを手に取ってしまいそうなので警戒する。
英文学だし、ノーベル賞作家だし、これならペラペラということは無さそう。タイトルもなんとなく、「心の機微」がこの中に詰まってそうじゃない?
あとがきで、作者はネタバレOKと公表しているらしいが、みんなそれを避けるようにレビュー書いているとあった。実際に読み終わると、それに従いたいと私自身もそう思う。(amazonレビューはネタバレレビューが多いので注意!)
現在の主人公の不思議な仕事と、幼い時に育った不思議な学校での回想が交互に綴られてストーリーは進行していく。背景や設定が最初にしっかりと説明されないので、不穏な空気や嫌な予感をずっと抱えながら読んでいた。主人公たちがその背景に少しずつ気づくにつれて、私も少しずつその奇妙な世界の状況を理解していく・・・。
この緊張感が良かった。
私の生活でも、なんとなく気が付いているけど言葉にできないことはある。聞きたいけど聞いてはいけないこと、知っているけど知らないふりをすべきこと。言葉に出しても問題はないはずなのに、すべてを台無しにしてしまいそうな何か。
そんなヒヤヒヤするような、綱渡りの会話や行動を通して見えてくる全体像。これからこの学校の子供たちはどうなってしまうのか。どうやったら主人公キャシーの現在の仕事に繋がるのか。
話に激しい起伏はなくて淡々と感じてしまうけど、思い出せば子供のころは、誰々と遊んで楽しかった、仲間外れにされそうで焦ったり、うそや強がりがバレないかドキドキしたり、そんな大事件が毎日あった気がする。なんとなく、そんな大事件の連続を追体験しているようで夢中で読み進めてしまった。
終盤でその奇妙さを生み出す、この世界の設定にやっとたどり着くことになる。けどその頃には、子供たちが学校で何となく知ったのと同じように、私もなんとなくその真実を知っていた。知っていても、明言されると衝撃を受ける。きっとネタバレを回避したくなるのは、この何となく知るプロセスと衝撃とを是非他の人にも味わってほしいからだと思う。
あとがきで、エミリ先生がキャシー達を必要になったら自分で使うだろうか、という仮定が出てきた。この質問を考えると、この小説の衝撃=他人の話がより自分事化される気がする。
私の考えでは、エミリ先生は使うと思う。「わたしを離さないで」に泣いていたマダムの涙も、結局は向こう側に居る可哀そうな人への憐憫。エミリ先生の活動も、自分が安全地帯にいながら施す自己満足に思えてくる。
だとしたら現実世界で考えてみると、例えば国際協力やNGOの活動なんかは、自己満足なんだろうか。ただ痛みを和らげて問題の本質から目をそらして、先進国が先進国である立場を守っている一面もあるのかもしれない。(だからしなくて良い、しない方が良いということではないが。)
ネタバレ部分に触れていないので、なんのこっちゃわからないと思いますが、そんなことにまで思い至りました。
読んだ人と解釈とか考えを交換したくなります。きっと良い本。